20/12/25 しら梅に



梅の絵を描いていたら、蕪村と呉春のことを考えました。
そんな話です。大半が、他愛もない妄想です。


旧暦の12月25日は、与謝蕪村の命日だそうです。
旧暦なので、今の暦になおすと1月17日らしいです。
だから本当は1月17日にこういう話をするのがいいのかもしれません。しかし、蕪村の終焉と、年の瀬の空気感とが、どうも切っても切れないイメージなんだよなあ。


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蕪村の弟子の俳人、几董が記した「夜半翁終焉記」には、

病床の蕪村が、今際の際に、弟子の月渓(呉春)を枕元に呼び寄せ、
辞世を書き留めさせる様子が描かれています。


蕪村について、いろいろ本を読んだりしていたら、
呉春のことを見直すようになりました。
いや、見直すような印象だったのかって感じですけど。呉春ごめん。


しかし正直に言って、これまでの自分の呉春イメージは、
まず蕪村門から応挙周辺へ、最終的に四条派の祖という華麗な転身ぶり、
そして京都のお役人の生まれで、芸妓さんを身請けして妻にする裕福ぶりと通人ぶり(悲しい別れが待っているわけですが……)、まあそれはともかくとして、
蕪村から応挙から、それぞれの要素を吸収して、最終的に新たな一派を立てていく身の振りかたは、その作風がしばしば「瀟洒、都会的」と語られることもあいまって、実に戦略的で器用な感じがして、
印象はすっかり「なんでも器用にソツなくこなす都会の男」……。(個人の感想です)
蘆雪と馬が合わなかったとかいうけど、合作も残っているわけだし、ただの噂じゃないかな。ただ、けっこう一途に応挙先生を慕ってきた蘆雪からすれば、そういう身の振り方の男が鼻についてしまうのも、わからんでもない。まあただの噂だと思いますけどね。


しかし、そういう鼻につくイメージだったのも、過去の話です。見直す話で持ち直すから大目に見てくれ呉春。
いくつか本などのなかで、呉春のいろいろな絵、師弟の関わり、蕪村のそばにいる呉春をながめてみると、
「ああ、呉春は本当に蕪村を尊敬していて、好きだったんだな」と思うのです。
そういう一途な尊敬や、愛情をもっていたことが感じられて、その思いが沁みるのです。


呉春の絵、その筆の動き、線、かたちには、しばしば蕪村の絵のエッセンスがあふれています。
特に俳画、蕪村の弟子時代の絵がわかりやすいのかな(あまり呉春の作風を時系列で把握できてなくて、イメージですみません)、とは思うんですが、いわゆる四条派になってからも、時々ひょこっと顔を出したり(わたしがそういう目で見るからかもしれませんが)。
器用さゆえにやはり再現度が高く、蕪村の絵を本当によくみているんだな、と唸ります。反面、追いかけようとして追いつけない、ちょっとしたもどかしさも感じることがあります。やはり蕪村の絵は蕪村の絵であって、呉春には呉春の絵があるのです。
それでも、蕪村の絵が本当に好きだからこそ追いかける、染み込んでいる、そのひたむきさも滲みます。


そして、呉春が描いた蕪村の肖像というのが、いくつかあります。
本で見たら3~4点は載っていて、そんなに描いたのかよ、とちょっと思ってしまいました。
いや、蕪村の弟子たちの中で呉春が一番絵がうまかったから頼まれた、とかかもしれないけど。それにしてもたびたび描いて、あろうことか像まで作って、いや、師匠大好きじゃないか。
ていうか、師匠大好きなんだな感が、絵から伝わってくるんですよ。ずっと近くで蕪村をみていた呉春の筆は、きっとほんとうの蕪村の面影を、丁寧になぞっているんだろうな。
それでも、ほんとうの蕪村を知っているからこそ、その記憶と、自分の筆とのすれちがいが、もどかしいんだろうな。


***


呉春は、蕪村のいない世界で、応挙のそばに行くことを選びました。
それを、今までの私は「売れっ子に近づいたんだな……」などと偏見たっぷりに思っていたのだけど(呉春まじごめん)、
考えてみれば、応挙は蕪村と仲良しの友だちだったわけで、
そういう人のそばにいることは、呉春にとって、なぐさめになったのかもしれません。
もういない師匠の、俳諧だけでなく絵のことを、心から理解できて、たくさん話せる人がいるのは、うれしかったのかもしれません。


応挙のようにまじめで、呉春のように器用な人間だからこそ、
どうしようもなくあこがれるような魅力が蕪村にはあって、
そういう視点から語れるというところにも、応挙と呉春には、お互い通じるものがあったのかもしれないな。


師のいなくなった世界で生きていくことを、ちゃんと考えていたんだろう。
(そこは蘆雪に見習ってほしかった)(源琦おまえもだ)(大号泣)


そして、呉春のお墓は、蕪村のお墓のすぐそばにあります。
呉春のことを、四条派の祖、応挙関係、という立ち位置でばかり見ていたわたしにとって、それはすごく意外なことでした。それから、蕪村のすぐそばの呉春、という立ち位置を、ちゃんと考えるようになったのだと思います。
いろいろな生き方をしてきたけれど、蕪村のことを、きっとずっと忘れていなかったのだ。


いろいろな視点から人や絵をみることの大切さを思い知らされました。



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呉春がのちに白梅の絵(白梅図屏風)を描いたとき、
師匠の辞世が脳裏に浮かんでいたかどうかは、呉春にしかわからず、
そういう絵師の事情を考えるより、素直に絵の美しさをたのしまなければいけないな、とは思うわけですが。
それでも、こうして各所に滲み出た思いを拾ってきてしまうと、
師の枕元で、師の声で「しら梅に」ということばを耳にした、書き留めたその瞬間が、ずっと呉春のどこかにあって、
それがあの絵にたどり着いたのだとしたら、やはり身にしみることだな、と月並みながら思ってしまうのでした。


(そして、青地に白梅の絵をわたしが時々描いているのは、多分あの絵の影響なんですよね。最初気がつかなかったけど……鼻につくイメージでいながらも、あの絵をやっぱりきれいだと感じていたのだ)


***


そういうわけで、見直しました呉春。すみませんでした。


蕪村と呉春、呉春と応挙の絵師としての性質や、関係性については、
司馬遼太郎の『天明の絵師』に描かれたイメージがどうもずっと強くて(この話するの何度目ですかね…すみませんね…)、
ちゃんとほんとうの蕪村やほんとうの呉春のことを、というか彼らの絵を、素直にみることを第一にせねばいけないな、
(でも『天明の絵師』にでてくる蕪村のせりふには折々励まされています)(この話するの何度目ですかね)
ていうか、わたしの呉春イメージが凝り固まっていたのも、呉春の絵をちゃんとみていなかったせいだな、と反省しつつも、
絵師の人間について考えると、絵をみるのもたのしくなってしまうこともあって、なんだか申し訳ない。


こういう、絵師の人間についてとか感情についてとか、余計な妄想をするたびに、本人にものすごく失礼なことをしているなと思います。
だって二百年も三百年も後の無関係の人間に、想像で勝手なことを言われるなんて、絶対いい気持ちはしないじゃありませんか。
好きになればなるほど無礼を働いてしまう。ほどほどにしましょう……


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しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 蕪村

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