2021/1/12 話す、描く、聞く




好きな絵師の好きな絵をうつしていたら、不意に、何かがこみあげてしまった。

いや大丈夫か自分。
大丈夫だから書いてるんですけど。

例によって模写というほどしっかりやってないんですが、
既存の絵を真似して描くというようなことを、最近もいくつかやっていまして、その流れで描いていたのですけれど。
描くためにじっくりとみて、やっぱり好きだなあ、きれいだなあと思ったその線を、自分の手でなぞろうとしたとき、
無意識に、目の奥あたり、何かがこみあげてきた。
あまりに突然すぎて自分でもびっくりして、しかも理由がよくわからない。

でも、こういう、自分でもよくわからないんだけどこみあげてくるという感覚は、ここ数年でいくつか身に覚えがあって、
それらを思い返すに、共通しているのは何かと考えると、
好きなものや大事にしているものについて、頭の中でずっと何度も考えていたことを、ふと口に出したときだった。

自分の感情や感覚、思考について、言葉にするのがとても遅くおまけに下手なので、
そういうのを、口に出して話すことが少ない。得意でもないし。
だから、しばらくの間(これは数日とか数週とか数ヶ月とかいろいろな単位で)、ひとりで何度も同じことを考えている、
というか、頭の中でひとりごとをずっと言っている、というようなことが多いわけです。
そういう頭の中で話している言葉が、ある時ふとまとまったりすると、ブログに書いたりするんだけど。私のような話下手にとって、書くということはなんともちょうどいい整理法であります。

そういう、ずっと頭にあったこと、内緒でこっそり奥底にしまって、時々出してみてはまたしまったりするもののようなことを、
ある時ふいに、声に出して人に話したときに、こみあげて驚いたことがありました。まったく意識なく、まったく突然に。
一応大人なのにこんなんで大丈夫なんでしょうか。一応大人なので堪えて引っ込めますが。

好きなひとの好きな絵をなぞって、こみあげた感覚は、それにすごく似ていたのでした。

確かにその絵は、数ヶ月前だろうか、初めて本でみたときから、いいなあ、好きだなあと思っていて、
その内容への個人的な思い入れもあって、繰り返し、脳内でひとりごちていたように思います。
だけど、それを声に出して誰かに話したときでなく、その絵をうつしたときにこみあげるとは、どういうことでしょうか。
話すことと描くことは、他人にわかるようにアウトプットするという点では同じかもしれないけど、でも私はひとりでチマチマ描いているだけで、別に誰かに見せたわけではないし。

ひとに伝えることではなく、外へ出すことがスイッチなんでしょうか。
無意識の感極まりスイッチ。

しかし、もしかしたら、そういう私の思い入れの問題ではなくて、
ただ絵の良さや筆のきれいさが身体に沁みた、という可能性もある。
ただ見ることと、見ながら描くことでは、やはり得られる身体感覚がちがうので。
ひとつ、同じ筆をなぞっただけでも、いろいろな感覚があって、
好きな描写を追いかけられる嬉しさとか、拙い描写で追いかけてしまう切なさとか。
好きなものを好きだなあと肌で感じることとか。
好きなものを好きでいられる幸せを噛みしめることとか。
その絵を描いたそのひとが、その一筆を動かした瞬間が、確かにこの世にあったのを実感することとか。
こみあげる可能性は様々あるんですけれども。

ついでに言うと、うつしているときに、
その絵を描いたひとに叱られるような気持ちにもなることもあります。もっとちゃんとしなさい、とか、何やっとんねん、とか。
同じようなことが、ただ絵をみているときでもたまにあります。叱られたり、背中を押されたり、叩かれたり。お前はどうする、と問いかけられたり。私の方なんか見ていない言葉を、ただ盗み聞きしたり。
そういう、私の頭が勝手に聞くだれかの声を、ただ頭を垂れて聞いていたり。

いや大丈夫か自分。大丈夫だと思います。たぶん。

好きなもののことをずっと考えていられるのは幸せなんですが、感情がでかくなりすぎると、ちょっと扱いに困ります。
落ち着いてちゃんと考えて、ちゃんと勉強したい。

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