21/02/11 静嘉堂文庫美術館にて

久しぶりに展覧会の感想ノートを書いたのでアップします。
1月に静嘉堂文庫美術館へ行ってきたときの話です。


(写真の映り込みがすごくて失敬)

静嘉堂文庫美術館、今まであまりチェックしてなかったんですけど、
今回展、日曜美術館のアートシーンで、応挙先生の「江口君図」がでてるのをチラ見しちゃったんですよ。
で、釣られた。まんまと。ここ最近応挙先生みる機会を逃してばかりいるので。
というのはきっかけで、江戸の風俗画と浮世絵ってことでなかなかたのしそうだし、もうひとつ目玉の英一蝶も好きだし、久しぶりに行ってみよう~となった次第です。

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展覧会タイトルは「江戸のエナジー」。
その言葉通り、絵の力、江戸時代の人々の力があふれていて、元気をもらえました。

風俗画の群衆、大勢で集まって盛り上がったり、ごはんを食べたり酔っ払ったり、密着してひそひそ話したりなにがしかのやましいことをしていたり、
今の緊急事態宣言下の世の中では褒められたもんじゃないようなことを、みんなやっているわけですが、
その姿を一歩引いて(中に入り込んだら入り込んだでそれも熱気むんむんで楽しいのでしょうが、今回は引きで)眺めるのは、素直におもしろく、ひとりひとりの生命力に元気づけられる。
酔っ払いや他人のひそひそ話が気になるのは今も昔も変わらないんですねえ。

風俗画はいくつかでていたけど、中でも「歌舞伎図屏風」の、
まんなかで躍る三人の女性たちのおどる動き、ひらひらとひらめく帯や着物のフォルム、彼女たちを囲む人々の熱気、がなんとも好きだった。
画面上部に金雲がもくもく湧いているんですが、その金雲をみたとき、
あっこういうの自分好きだったな、こういうの、と思って胸があつくなってしまった。

「こういうの」を生でみるのが久しぶりだったからか。
「こういうの」の感覚は展覧会で実際に作品と対峙したときにしか得られぬものが多くあり、脳内再生がむずかしくて、久しく感じていないとつかめなくなってしまう。体感できてうれしかった。
というか、書いてて思ったけど、自分が日本美術を好きになった頃の、一番最初のときめきを思い出せるものなのかもしれない。

今回、そういう「生で相対してこそ得られる感覚」について、多く考えていたように思う。

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話の流れで風俗画の話からしてしまったのですが、展覧会の冒頭が、目玉の英一蝶「朝暾曳馬図」と応挙先生の「江口君図」だったんですね。初っぱなテンションあげてきますよね。しかも間近で見られるタイプの展示ケースだったし。

そうして絵と相対したときに、もちろん江口君の髪や目元や口許や着物の繊細すぎる繊細さとか、どこをとってもため息ものの描線のきれいさとか、英一蝶の筆や墨のかろやかな味わいや近くでみないとわからない表情、とかとか、実物みないとわからないことも、もちろん考えるんですよ。考えるんですが。
一蝶をみたとき、「ああ、この人はふつうの生活のふつうの幸せを切り取る名手だなあ」と、しみじみ思ったのです。

それって別に実物じゃなくても、図版でも感じ取れることだとは思うんです。でも、そう思ったとき、「この感情は、今この瞬間、この同じ空間じゃないと湧かないものだな」とも感じたのです。根拠のない実感なんですけど。図版だとあそこまでしみじみしないと思うのですよ。
それは原画を間近でみることによって、図版よりはるかに多い情報量が迫ってくるためでもあろうし、ガラス越しとはいえ同じ空間にいるわけで、やっぱり確実に絵と自分との関係性が濃いんだな、と思うわけですね。
だから図版だとわからないようなことはもちろん、図版でもわかるようなことでもより一層沁みるというか……。などと感慨に耽りながら、子どもと馬の水に映った影を眺めました。あの影に何気ない幸せが詰まっている気がする。
やっぱ流刑とか処されちゃうと、なんでもないようなことが幸せだったと思うのかしら、などと考えたのですが、おそらく流罪前の作品なんだそうです。

最近、いろいろ好きな絵のことを思い返してみると、
ものすごく考え(というか妄想)を巡らせてしまったり、わくわくしたりしんみりしたり気絶しそうになったりした記憶が残っているのって、やっぱり実物を見た絵なんだよなあ。

応挙先生の江口君はきれいでした。応挙先生の描写はほんとうにきれいで、毎回うっとりです。きれいしか出てこねえ。うん、でもきれいじゃなくても好きですけど。意味深。
ここ最近でいくつか江戸絵画の模写(ってほどしっかりやってない写し)をしていて、その実感ゆえに、自分のみえるところが変わっていると気がつきました。あっここは線の色変えるんだなとか……
(ちなみに帯だけ線の色が濃くなってて、他にも肉筆浮世絵でそういうのがあったので、なんか基準あんのか!?固いものは濃い線で描くのか!?とか思ったのですが周りを見渡したら別にそういうわけでもなかったみたいです。帯の線を濃くすると絵が締まるのかな)

やっぱり髪の描写がずば抜けてて、一本一本の繊細さはもちろん、細い髪の流れがきらきらと光っていて(墨の質でしょうか)うっとりしました。神々しい。
しかし、あの香箱座りみたいな象は不思議な存在で、きれいですねえで済ませればきれいですねえで済むんですけど、突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めちゃいますねえ。
あの座り方はどこかに先例とかあるのかしら……そしてあのトゥルッとした質感……言葉を選ばずに言えば象っぽくない……写生できないから仕方ない……いや、でも象も込みで普賢菩薩の化身、一種超越した存在として描いていて、わたしたちがみているのは象であって象ではないのかもしれない……妄想楽しいですね!

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と、まあそんな感じで最初から大満足して、風俗画の熱気に盛り上がって、それから錦絵と美人画。
錦絵は時代を追ってだんだんカラフルになっていく。画題や元ネタの解説が丁寧でありがたかったです。
子どもの絵がいくつかあって嬉しかった。ちょうど子どもの絵を描きたいから調べようと思っていたところだったので。こういう奇遇もあるから美術館はよい。
鈴木春信の子どもの絵、けっこう表情豊かで、楽しそうでびっくりしました。春信って、無表情のお人形さん系美男美女を描くイメージだったので。こういうのも描くんだ……。先入観の皮がむかれていく。

錦絵はその後時代が下って勝川、歌麿、歌川といろいろ、美人画に役者絵に子ども絵に見立て絵にと画題も多彩で、みんなそれぞれにおもしろい。
もちろん知らん人もいて、気になったのは栄松斎長喜という人の絵。美人画。蔦重が出していたんだそうです。
人物造形がなんかかわいいんですよ。肩幅がきゅっとせまくてしゅるっとした立ち姿。ちょっと夢二っぽい。顔つきもつぶらな瞳で愛らしかった。

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そして肉筆美人画ですね。すごい盛りだくさん出ていました。
美人だから良いとか単純な話じゃなくて、うつくしく描こうと筆にこもる力とか、緊張感とか、気持ちの昂りとか、肉筆であることによるリアリティや存在感とか、そういうものにエナジーを感じる。着物やモチーフも、絵づくりもきれいだし。

木とか花とか添えるのにも、入れたいところに最小限入れて画面の端とか無視なんですけど、自由でいいよな、というかこれで自然にみえる技量だよな。こういうの、自分だと最近こわくてあんまやってなかったけど、やっぱあこがれるなと思う。

東西美人競べってことで江戸の人と京都の人がいたのですが、渡辺南岳が1点ありまして。玄宗と楊貴妃の絵。この人応挙先生のお弟子なんですよ。
この人の絵は、東博で十二支の絵とか、本で少しいくつかの図版をみたくらいなんですが、なんか独特の匂いというか、押しの強さがある感じでおもしろいんですよね。
今回もとろけるような表情や衣の描写が妙になまめかしくて、若干蘆雪っぽさを受信したんですけど、あのへんは互いに影響し合っている(と踏んでいる)ので、蘆雪っぽさのなかには応挙っぽさも源琦っぽさもあるわけなんですよね。きっと南岳はその全てを近くで見ていたんでしょうしね。うらやましい!
しかし不思議と押しが強いなあ。なんだろうな、この人ちょっと味が濃い感じがするんですよ。応挙先生や源琦はおすましみたいな感じなんだけど。蘆雪は味とか通り越してたまにバタ臭いときとかある。何を言ってるんだ。

美人画と一口に言っても、絵師やモチーフによってその人の個性、性格や生き方が違ってみえてくるからおもしろいですよね。
国芳の美人なんかはきっぷのいい姐さんって感じで印象的だった。北斎もきりっとしていていい。彼の門人たちの描く美人にも通ずるところがある。

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美人画や風俗画、こういう華やかな世界をがっつりみたのは久しぶりだったのですが、やはり元気をもらえますね。
好きな絵師の絵をたっぷり味わえるというのも、活力になり、反省もし、もっとがんばらねばとか、次はこうしてみようとか思えますしね。

たくさん出会いや発見もあって、勉強にもなって、
生で絵をみに行ってこれだけ得るものがあるとなると、百歩譲って不急だとしても、不要だなんて言われたら泣いてしまうなあ、などと思ったりしました。
とは言いつつ、守るべきものは守らないといけませんし、なるたけ早く、そこら中気軽に行けるようになってほしいものです。

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